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  会員紹介 > 石州流不昧派


来 歴
 千利休により完成された茶道は利休七哲と称される武将茶人をはじめ多く茶湯者を誕生させた。中でも利休の長男千道安から、紀伊和歌山四万石桑山重睹の三男桑山宗仙、徳川四代将軍家綱茶道師範大和郡山小泉一万三千四百石の藩主片桐石州に受け継がれ、その高弟の一人大徳寺二五三世怡渓宗悦、江戸幕府の御数寄屋頭となった半々庵初代伊佐奉琢、半提庵二代伊佐幸琢、半寸庵三代伊佐宰琢を経て、雲州松江十八万五千石松平不昧に伝承された茶系を石州流不昧派という。

 不昧は、その著書「茶礎」で、「茶の湯は稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲けるなでしこのやうにありたく候。此味をかみわけなば、独り、数寄道を得べし、其外客の粗相は亭主の粗相なり、亭主の粗相は客の粗相と思うべし、味はふべき事なり。客の心になりて亭主せよ、習にかゝはり、道理にからまれ、かたくるしさ茶人は田舎茶道と笑うなり。我が流儀皆立つべからず、諸流皆我が流にて、別に立流れあるべからずと可覚悟なり」と述べている。

 しかし、不昧は、その茶道を藩の軍職や家臣に伝えており、茶道を伝授された家臣は、その後、雲州候茶道、茶道頭として藩の茶湯方となっている。
中でも、藤井長古(名は秀俊、提起庵・宗与)、女婿二代藤井長古(名は慎、不巻庵、宗吉)、安喰善知(明露庵・宗眠)旧母里藩松平家松平直敬(無究庵不休一玄宗円)、田中千子(空々庵一禾宗真)、渡辺義一(無構庵一諦宗石)、安原庸夫(無冠庵一庸宗云)へと受け継がれている。

利休時代の遺産を次の世代へ

 日本人は、何にでも道を求めたがる。茶湯も「茶道」と呼称する。茶道といえば重々しく聞こえて来るが、半面かたぐるしい感じにもなる。茶湯を研究して見ると、日常生活の中で、ごくあたりまえに見過ごしたり、行ったりしていることを、原型原則を踏まえて考えさせられることに出会う。 そうした時、今、一般に忘れられかけている私たちの先祖が蓄積して来た大いなる文化知識が、あちらにもこちらにも塗り込まれているのだなと思い、そうした利休時代の遺産を次の世代に余すことなくしっかりと、伝えていかなけらばならないと切実に思う。

事務局住所

石州流茶道水戸何陋会 内
〒310-0041
茨城県水戸市上水戸4−1−63
Mail : info@sekishunet.com

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